2014年09月01日

ALSアイスバケツチャレンジを資本主義の精神から考えてみる

Unknown.jpegALSアイスバケツチャレンジとは、今さら説明するまでもありませんが、ALSという難病を広めるため運動で、氷水をかぶるか1万円を寄付するかを問うモノです。アメリカのセレブがあおりまくって大成功しました。

このムーブメントについて、日本では賛否両論ありますが、最近こういうことで賛否両論起こると、いつもその裏にある価値観の違いについて想いを巡らしてしまいます。

先ず、このムーブメントで集まった寄付額ですが、
アメリカでは80億円、
日本では2千5百万円です。
つまり、日本はアメリカの320分の1です。

この結果だけ見ても、このムーブメントは日本ではアメリカに比べて、とても小さなものであることがわかります。

日本では、このムーブメントは素直に受け入れられているわけではなく、武井壮のようなムーブメントに対する批判的なコメントの方に、むしろ共感が広がりやすいように見えます。

ALSアイスバケツチャレンジで検索しても、批判的な内容が上位を占めています。

なぜ、日本ではこのムーブメントが、こんなに素直に受け入れられないのででしょうか?

タイムラインに流れてくるコメントを見ていると、「お金が集まれば何をしてもいいのか?」という内容が目につきます。ネット記事によれば、「売名行為だ!」という批判もあるようです。

「お金が集まれば何をしてもいいのか?」
「売名行為だ!」

この二つの表現が出てくるのは、おそらく目的合理的な振る舞いに対する拒絶反応です。日本人は、人に迷惑がかからなければ「お金を集めるために何をしてもいい」「売名でも構わない」とは思えないのです。

むしろ、周囲の人間関係を重視して、「空気を乱さない範囲で行動すべき」と考えるのだろうと思います。これが賛否両論になって、いまいち盛り上がりに欠けた理由ではないかと思います。

さて、資本主義の話です。資本主義を理解する上で重要になるのは、資本主義の制度と精神を分けて考える事だろうと思います。

資本主義の制度とは、銀行からお金が借りれて、株式が取引されている社会制度がある事ですが、日本もアメリカもこの点は同じ制度を持っています。問題は精神の違いです。

資本主義の精神は、「お金儲けを良い事だ」と思えるかどうかです。世界中でお金儲けは悪でしたが、アメリカが世界でいち早くお金儲けは良い事だと思う事に成功したと言われています。

お金儲けは良い事だ。だから、お金儲けのためになら何をしても構わない。ただし、人に迷惑をかけなければ。という考え方は、今でもアメリカでは大きな考え方の一つです。お金儲けに対して目的合理的になることが正義なのです。

ALSアイスバケツチャレンジがアメリカ発祥で、しかもアメリカで80億円もの寄付を集めている事から考えても、この資本主義の精神と合致したムーブメントだと言えます。

一方、日本では、空気を大切にする文化とあまりなじまず、寄付もそれほど伸びなかったものと思われます。

私はファンドレイジングに関わる事が多々あるのですが、このムーブメントから、日本で寄付文化をどのように醸成していけば良いのか、とても大きなヒントを得たように思います。

で、お前はこのムーブメントに賛成なのか反対なのかどっちなんだよと言われそうなので一応言っておくと、日本にはなじまないので別の方法を考えた方が、日本で活動するファンドレイザーには賢明だと思う、というのが答えです。
posted by Kagege at 00:56| Comment(0) | コラム

2014年06月25日

意気地と書いていきじと読む

1907667_640287626045830_6034315408732044474_n.jpg意気地(いきじ)という言葉を大切にしています。

美輪明宏が、意気地があれば生きていける、といつも言っているのですが、全くその通りだと思います。

意気地は、いきのことです。

いきとは、安心しない態度のことです。相手に対して決して媚びず、しかし、無視しないで関わっていこうとする態度です。

永遠に交わらない縦の縞模様は、いきの象徴です。気高い柄です。

意気地は、プライドのことです。

プライドを持って生きるということは、社会の一員として与えられた自分の仕事に責任を持つということです。プライドがあれば、仕事のクオリティーは劇的に向上します。

一方、自分が社会から孤立していると信じたとき、プライドは暴走し社会を攻撃します。

「誰でも良かった」の根源には、プライドが踏みにじられた怒りが潜んでいると思います。

「意気地なし」

最近聞かなくなりました。強い相手に向かって行くことを止めた人間に言う言葉です。

強い相手とはだれか?人それぞれですが、不条理をもたらす目上の存在でしょう。しかし、本当の意味でその相手は人ではありません。

村上春樹が「壁」と表現したその強い相手は、システムのことです。システムはいつも私たちの意気地をへし折ろうとします。

人間はあまりにも弱く、結果は惨敗することがほとんどですが、意気地だけは守ることができます。なぜなら意気地は心意気次第だからです。

社会は移ろって、意気地という言葉はこれからどんどん聞かなくなっていくと思います。しかし、忘れてはならない言葉だと思います。
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2013年12月29日

小さな会社はとても強い?

コースター.jpg小さくて優秀な会社はとても強いです。営業利益も半端じゃないところが沢山あります。

写真は、うちで使っているコースターたちです。

コップの乗っているコースターは、木工房ようびの大島さんの作で、ナラ材で出来ています。木の素材の特性を理解し尽くして作られている事が伝わってきます。他のは高岡銅器のコースターです。全部手作業で、金属の化学変化で色を出しているので、深みが違います。コースターを気分で使い分けるととても楽しいですし、第一にお客さんに喜んでもらえます。

僕は小さな会社と仕事をすることが多いので余計に思うのかもしれませんが、こういう丁寧な手仕事で、旧来の流通に乗らずに自力で勝負しているメーカーが、圧倒的に強いように思います。

少人数でやっていて、仕事が一流で、デザイン力もあって、流通も自前となれば、旧来の流通に乗っている大量生産品とは価格も質も勝負になりません。

当たり前の話ですが、良いものを安く供給すれば必ず売れます。高級ブランドだと100万円のものが、工場直だと70万円で買えるとあれば、普通は工場で買います。そんなもんです。この基本を押さえていれば、ビジネスで簡単に負ける事はありません。というか無敵です。

これまで小さな企業は大企業に比べて売るのが不慣れだったので、下請けに甘んじるしかなかったわけですが、ネットのおかげで今や売るのもデザインもブランド力も全部中小の方が上、ということが可能な時代です。ただ、まだまだ販売方法について不慣れなので、どんどんノウハウを形にして提供して行いかないとなあと思っています。

コーヒーおいしい。
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2010年01月13日

アイデンティティとナショナリティ

民主党が外国人地方参政権を国会に提出する動きを見せている。

友人の中に永住外国人がいるので心苦しいのだが、私はこの件について明確に反対している。

私が反対する一番の理由は、アイデンティティとナショナリティの問題を区別しているからだ。

アイデンティティとは、個人のルーツがどうであるかということだ。パプアニューギニア出身の両親から生まれた在日パプアニュギニア人2世は、パプアニューギニアにルーツを持っている。これは国籍がパプアニューギニアであろうと、日本であろうと変わらない。

ナショナリティーの問題とは、どの国に所属するか、どの国に奉仕し、よりよい地域を実現するかを決めるということだ。パプアニューギニア人としてパプアニューギニア作りのために、日本を作ることはできない。阪神タイガースの一員として、巨人には貢献できない。

アイデンティティはパプアニューギニアにある。その上でナショナリティーをパプアニューギニアのままにするのか、日本にするのかということが問われるわけで、パプアニューギニアのままにすると決めたのであれば、パプアニューギニアのために現地で政治をすれば良いという話になる。

外国人は、あくまでお客さんなので、国作りには参加すべきではない。それがたとえ地方参政権であっても、地域が国を作るのだから同じことだ。日本国は日本人が作る。当たり前のことだと思う。税金の対価は行政サービスにすぎない。

アメリカはその辺慣れていて、アフリカ系アメリカ人、日系アメリカ人など、ルーツとナショナリティーは全く別のこととして理解されている。私のルーツはアフリカにあるけれど、アメリカという国に所属して、アメリカ人としてアメリカを作るという感覚だ。だから当然市民権のない永住外国人にアメリカでの選挙権はない。逆に、元外国人であっても、市民権を得れば州知事になるようなこともある。前者はオバマで後者はシュワちゃんね。

と、いろいろ書いたのだけど、民主党は東アジア共同体構想を実現させるためのイニシアティブを握るために、これを言い出しているのだと思う。だけれど、各国の同意、少なくとも国民の同意を求めた上でなければ、文化的摩擦による負担ばかりが増える国民には協力が得られず、政治ごと瓦解してうまくいかないと思う。日本人は文化摩擦を体験していないので、負担増は想像を絶する。

自民党への攻撃というニュアンスもあるのだろうが、ここはしっかりと国民のコンセンサスを作る努力をしてもらいたい。
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2009年08月20日

実は「心の時代」はもう来ていた!?

1991年にバブルが崩壊してから、「心の時代」と呼ばれてほぼ20年。物質的豊かさを手にした私たちは、次は幸福になるために、「心の時代」に向かうのだと称揚された。

しかし、そんな精神的豊かさ、文化的成熟は一向に姿を現さないので、このまま来ないんじゃないかと思っていたのだが、実はもう訪れていたことに気がついた。

私がイメージしていた「心の時代」とは、美しい街、深い人間のつながり、芸術文化宗教が身近にある、江戸時代的東京のような、そんなイメージだった。だが、「心の時代」はそんな形をしていなかった。だから気がつかなかったのだ。

私たちは、物質的豊かさを消費社会の中で勝ち得たので、欲しいモノは金を出して買うという感覚が骨の髄までしみ込んでいる。そのせいで、「心」まで消費社会に組み込んで金を出して買おうとしていたのだ。

どういうことかというと、なんとなく人生がうまくいかないと感じている人がいるとして、その人は自分の心の問題を金を出して「自己開発セミナー」に出席し、「なりたい自分になる方法」と「成功のための7つの習慣」を買う。または、カルト教団に引っ掛かって、前世の因縁(本当は良い意味の言葉)を断ち切るために高額な壺を買う。死後の生活を慮って、良い戒名を買う。

脳科学が注目されること自体はいいのだが、今のブームはこの買えるという思想が根っこにあるのは間違いない。脳をどんなに分析にしても、人間のつながりと美しい街並みは買えない。人間工学に基づいた使いやすい商品が買えるくらいだ。

このように、江戸時代的東京のような文化的な豊かさを求めるのが「心の時代」ではなく、もっと手軽に「心」も買おうとする時代が来たにすぎなかったのだ。

では、この「心の消費社会」という思想は、うまく機能したのかというと、これがまた失敗だった。

実は、バブル期にはすでに「自己開発セミナー」が流行し、「あなたは変われる」とか、「なりたい自分になれる」という言葉が跋扈していた。今でも書店を眺めれば同じ言葉が氾濫しているのだから、20年間相変わらずうまく行っていないと言ってもいいだろう。

しかし20年たってようやく、金を出しても「なりたい自分になれない」ことが分かってきたのか、時代が変わりつつある。社会企業家はその先兵かもしれない。

本当の意味での「心の時代」が始まることを願いたい。
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2009年08月18日

霊魂を真面目に考察した

宗教の話が続いているので、もう少し。

先日、ぼくの親友の能楽師と朝まで死後の世界について意見を交換した。能楽の世界の霊魂観や死後の世界というのはとても豊かで興味深い。ちなみに、背後霊は登場しないそうだ。

「死後どこへ行くのか」この根源的な問いに、私たち人類は共通の答えを見出すことができていない。死後、極楽浄土へ行く、悪いことをすれば地獄に落ちる、神を信じれば天国だ、49日で生まれ変わる、死後の世界なんてない、と、意見は対立している。

なぜこんなことになるのかというと、ハムレットの言葉を借りれば「誰ひとりとして帰ってきためしのない未知の世界」だからである。臨死体験をして死後の世界を見てきたと語る人物がいるが、臨死は死ではなく生の体験の一つに過ぎないので、何の信憑性もない。やはりハムレットは正しい。

ということで、死後については言ったもの勝ちなのだ。この状況を踏まえて、死後の世界を考察してみる。

まず、重要な問いは「死後私たちに意識があるか?」である。

「意識」の定義が面倒なのでざっくり言うと、起きているときにあって、寝ているときに失うものだ。「夢」は浅い眠りの体験なので起きているとしてしまおう。死とは、眠りよりももっと深い眠りだ。だから、脳の活動が完全に停止している状態で、現在の脳科学の立場に立てば「夢」を見ることは考えられない。よって、あなた(わたし)の死後に「意識」はないと考える。

「霊魂はあるか?」

「意識」が無くなるが、「霊魂」があるのではないかという考え方もある。この霊魂はアートマンともいう。アートマンに生の記憶が刻まれており、それが来世に影響を与えるという思想だ。これについては「あるかないかわからない」としか言えない。

なぜなら、現世の視点からは実証不可能だからだ。たとえ死んでも「意識」と脳の来歴としての「記憶」は断絶するので、来世でも確かめられない。確かめようのない理屈を言うのは反則だ。だからあると言ってはいけないし、ないと言ってもいけない。言うときは、わからないと言うのが筋だ。もし、それをあると言っているのだとすると、それはただの思い込みの激しいバカか、救済を目的に嘘を承知で言っているかのどちらかだろう。釈尊はこのままを述べているし、キリストは後者ではないだろうか。

「生まれ変わるか」

輪廻はアートマン思想に乗っかるのだろうが、これもはっきりと答えられない。ただし、先に言ったように「意識」と「記憶」が断絶するので、考える必要もない。「あなた」は生まれ変わらない。

「霊とは何か」

 世界中に幽霊や神々が存在する。2500年以前の古い宗教はすべて神や霊がそこらじゅうにいるアミニズム的な世界をイメージしている。ということは霊は存在するのだろうか?

 ちなみにぼくの弟は霊感が強く、ときどき霊に出会ったと証言する。他にもそんな人がいるだろう。かくいう私も小学生の頃、ぼんやりした光に出会ったことがある。しかし、あれはおそらく、幻覚だ。今なら自己暗示によって見ようとすれば見えることが分かっているので不思議ではないし、統合失調症になれば、三途の川や死者の魂は本当に見える。
 幽霊とは死者の魂だというが、それはない。さっき説明した通り「意識」は死者にはないからだ。怨念のような「意思」も「意識なし」には保てない。
 神になる霊魂もある。能楽ではおなじみの平将門は、あまりに祟るので神社で祭って悪霊から神になった。他にも道真や家康も神になっている。彼らの死後、現世への恨みが怨念となって祟っているのではと考えられたのだろうが、それは死者にはできない。なにせ「意識」がないからだ。では、何が祟るのかというと生者の「意識」と「記憶」しかない。
 あなたの「死」は、他者の「意識」に影響をあたえて、他者の「記憶」に存在し続ける。もし存在し続ける仕組みが永続的なら「神」と呼ぶことができるだろう。「神格化」とはそういう仕組みを作ることだ。

 死んだ者とはまったく関係なく、生きている者の問題として「幽霊や神」がいるのである。

「死後の世界があるとすれば」

 死後の世界とは、あなたと私が居た場合、「あなたの死」は私にとって一つの「記憶」すぎない。しかし、「私の死」では、私は死後の世界を体験する可能性がある。
 走馬燈という言葉があるように、一瞬で人生すべてを振り返る体験をすることがある。もっと手近なところでいうと、楽しい時間はあっという間に過ぎるし、嫌な時間は永遠に続く気がする。このように時間とは主観的である。死の時間というものを誰ひとりとして経験した者がいないので想像に過ぎないが、もし死を経験する時間があるとすれば、それは意識の限りない淵の体験であり、生の終わりの一瞬が無限大に極大した時間である可能性が残される。その一瞬は限りないゼロの瞬間なので臨死のレベルでは説明できない。その無限に続くとさえ感じられる夢の中の時間、この一瞬だけが死後の世界と呼べなくもない。存在すれば、だが。

「スピっちゃう人たち」

テレビの影響で背後霊や生まれ変わりを信じるスピリチュアリズムにはまる人たちがいる。スピリチュアリズムは、宗教なのだが、宗教が遠くに行きすぎたので宗教を宗教と認識できなくなっているのだろう。あの世は「わからない」のであって、わかっている人がいるとすれば、それは勘違いでしかない。にもかかわらず、因果の元、なぜ私が苦しいのか、その合理的な理由を探さずにはいられない。理由がないことを不条理というが、不条理は受け入れがたい。そう考えるのが人間の性であるとすれば、神道やキリスト教が嘘に責任を持つべきである。スピっちゃうのはカルトの入り口に足を踏み入れるのと同義で危険だからだ。

という具合に朝まで死後の世界について話し合った。良いお酒だった。
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2009年08月17日

納棺夫日記と芥川賞

今年アカデミー賞に輝いたおくりびとの原作「納棺夫日記」を読んだ。

近年の読み物の中で、これほどの渾身の作品はないのではないか?

青木新門という無名の作家が書いた本で、しかもこれほど難解な内容がベストセラーになり、高度な仏教思想が文化を飛び越えてアメリカで評価されたという事実に畏怖さえ感じる。この事実だけとっても、奇跡を起こしうるだけの命のきらめきが宿っていることは間違いない。

まだ読まれていない方にはぜひご一読願いたい。

こころに残ったのは、「真理は一つ」であり、解釈の問題として仏教とキリスト教があるという内容。ぼくはキリスト教徒仏教の違いは、縁起の始まりを神と見るか、縁起そのものと見るかという違いがあると以前からよく言っていたのだが、彼の方が文化的深さまで含めた解釈を指すので上手だと思う。

また、真理こそ「不可思議光」ではないかという点は、その通りだと思うのだが、しかし、釈尊が「色即是空」と言っている通りで、「不可思議光」を信じることもまた空である。臨死体験をしたものは「不可思議光」のような体験をあの世(正確にはこの世の深淵)でもこの世でも体験するので、それだけに真実だと思いたくなるのだろう。しかし、どんな「神秘体験」もまた「空」でしかない。

それと全然関係ないが、文芸春秋に芥川賞が発表されたので流し読みしたのだが、「不可思議光」を体験してから出直してこいと言いたい。こんなんだったら、ぼくの方がましかもしれないので、応募してみようかと冗談で盛りあがったくらい。こちらは、暇ならどうぞ。
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2009年08月03日

自己の承認と家族

前回の補足。

「自己の承認」は、何も仕事だけが頼りではない。

もう一つの方法が、友人と家族に承認を託す方法だ。彼らは「社会」というよくわからない気まぐれな存在に比べて全人的な承認を長期にわたって保証してくれる存在だ。だから、昔の人は「なりたい自分」なんて考える必要もなかった。

友人と家族を大切にする、あたりまえのことが最も大切だ。

ただし、彼らも「神」ではなく社会の構成要因なので、全人的承認を究極的には依存することはできない。
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2009年07月31日

「なぜ働くのか」の根拠は美意識

ときどき書くスーパーハードなコラムです。たぶん、社会の根源に切りこめたと思います。後は、精密さの問題。

生活がある程度保証されている現代社会において、働く理由は「自己を承認」するためである。要するに、「俺ってすごい」と思いたいということ。もしくは「まあ、こんなもん」と、自分を許せるかということ。

「自己を承認」するには、ほとんどの場合「社会的承認」を利用する。社会の側に「お前すごい」と言ってもらって、「俺すごい」と思うのだ。社会の評価のバロメータの一つに「お金」がある。だから、「俺すごい」と思いたいときは「お金」を稼ぐことが一つの方法である。でも、「お金」によって自己を承認した場合、「お金」がなくなると「自己を承認」できなくなるので、自尊心が大きく傷つく。他のどんな方法であれ、社会に「自己の承認」を依存するということはこのリスクを取ることになる。そうなるとおおよそ、生きている間に大きなダメージを受けてしまう可能性が高くなる。それを回避するには「自己を社会に依存せずに承認すること」が必要である。

その方法は2つ、一つは自己を開き直って自己で直接承認する方法。しかし、これはどうしても反社会的になるので、生存することすら困難である。要するに犯罪者として隔離されることになる。もう一つは、社会の代替装置として神を利用する方法である。

宗教には倫理が書き込まれているので、何をすれば良いか、何をしてはいけないかを考えなくてよい。ちなみに良いことは道徳によって規定され進んで行うようになる。悪いことは法律によって罪と罰が規定されできないようになっている。だから、宗教が決めた倫理にしたがって行動していれば精神的安寧が約束されるのである。

ところが、神による承認は、社会からのフィードバックを受け付けないという意味で問題である。特に原理主義的な神の存在が危険である。それは教義にあるではなく、倫理は神が決めた絶対のものなので時代の要請を排他する機能を有するからである。逆に言えば、時代を超えて普遍的に安定するとも考えられるが、現代は原理主義がどう贔屓目に見ても問題になっている。

原理主義はもともと、悪人や貧者の救済に力を発揮したはずだ。犯罪を犯してでも生きなければいけない人に、神が承認を与えることで「みじめ」に生きなくてもよくなった。しかし、現代のような飢餓が統計上は排除できる時代においてはやはり考えものであろう。

では、原理主義的でない神や、社会に依存しない「自己の承認」は可能だろうか?

おそらくそれを可能にするのが「美意識」だ。

宇宙=神=森羅万象は、それだけでは我々は捉えられない存在である。しかし、芸術を通して、もしくは我々の感性を通して「美」を感じることができる。この「美」に竿刺して風俗習慣が生まれ、倫理が生まれ、社会が営まれている。つまり「美」はまっすぐに、社会に流れ込んできているわけで、その「美」に竿刺して仕事をすれば、社会の可変性に対応して「自己を承認」し続けられるはずだ。

「美」と「カッコイイ」は、宇宙に竿刺すか、社会に竿刺すかと言うレベルの違いによる。社会とは人の作ったもの、宇宙とは存在そのものである。もし「カッコイイ」に竿刺した場合、永続的な承認装置として期待できない。とても危険である。一方「美」に竿刺した場合、永続性をおおよそ期待できるはずである。

イチローは、社会的存在としてカッコイイが、彼のバッティングは社会に一切こびない美の世界の仕事だと言えば分ってもらえるだろうか。彼が仕事を続けられるのは、間違いなく「美意識」による。

社会に竿刺した場合は、社会的評価=自己評価なので、社会の尺度のプライオリティが変化した場合、自己評価も暴落してしまう。今はこの変化が激しいので、時代の寵児が転落する様子は数えられない程見てきたと思うので具体例はあえて出さない。

まとめると、原理主義的神を利用せずに「自己を承認」するためには、ただ「社会的承認」を利用するのではなく、「美」に竿刺した仕事を行って、同時に「社会的承認」のフィードバックループを回すことで反社会的になることを防ぐということである。おそらくこれしか方法はない。

だから、もしあなたが仕事に美意識が持てない環境にあるとしたら、それはとても危険である。あなたが原理主義的神を信奉していない場合、カルトやその他の社会的承認装置に対して簡単に奴隷化してしまうだろう。いや、おそらくもうすでにそうなっているのではないか?「なりたい自分になれる」などなど。

断言するが「自己を承認」できることは、今の世の中で間違いなくもっとも大切なことである。現代の社会病理のほとんどはここにあると思う。

この豊かな時代において「みじめ」には生きたくないものだ。
posted by Kagege at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム

2009年07月07日

無関心

最近、ああ天才だなと思う人に沢山お会いする。それは学生さんだったり、官僚さんだったり、会社の社長さんだったりする。おおよそ、どこの層でも1000人に一人くらいはそういう才能を持っている人がいると感じる。残念ながら僕はそういう才能に恵まれなかったので、こつこつ頑張るのだが・・・、天才とはすさまじいなと思わざる得ない。

しかし、天才は往々にして現実を無視したがる。たぶんわずらわしいんだよね、現実が。頭の回転が速すぎて、現実に構っているのがバカらしいというか・・・、その気持ちはわかるのだが・・・、もう少しいろんなことに関心をもってもいいじゃないか。

ロシアアニメの巨匠アレクサンドル・ペトロフが「無関心ほど恐ろしいものはない」と言っていたけれど、ほとんどの人は無関心で自分のことしか考えていない。

でもそれは社会の構造上仕方のないことかもしれない。

理由は二つあって、一つはそれだけみんな社会的に追い込まれていて自分のことでいっぱいいっぱいだということ。もう一つは社会の過剰な流動化によって、物事に関心を持って深く関わっていくこと自体がリスキーになっていることによる。つまり何に時間と労力を投資すればよいか全然わからないということ。

先日パチンコ店が放火されたけれど、こういった無差別殺人はこれからどんどん増えていくだろう。個人の自尊心を大きく傷つけられ、回復不可能なまでに追いこまれる社会では、自殺するか、なぜか気がつけば追い込まれている理由を作った社会そのものに牙をむくしかないからだ。

秋葉原やパチンコ店という場所は、これまで個人のダークサイドを包摂してきたという意味で象徴的な場所だろう。しかし、共にコップから水が溢れ出してしまった。その結果、オレを包摂してくれない場所を記号的な敵として攻撃した。誰でも良かったかもしれないが、その場所は選ばれた、と考えるのは考えすぎではあるまい。

そろそろ限界だと思う。

ほんの少しでいいのでのみなさんの力を貸してくれないだろうか。

例えば、この本を買うとか?

お、いい落ちだ。
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2009年06月01日

究極の護身術

説得誘導の研究を進めていると、危険な方法と同時に防御方法も判ってくる。

この間、弟のホームパーティーで突然暴漢に襲われた時の対処法を話したら評判がよかったので紹介したい。

それは実に簡単な方法で、究極の護身術といってもよい。しかも、簡単に習得できる。

その方法とは、危険を感じた瞬間に「ワァー!」と叫びながら走って逃げるというもの。古典的だが、これが究極の護身術だ。

ただ、いざという時に声が出ないことも多い。しかし、これも予行演習を頭の中でやっておけば、それほど声を出すのは難しくなくなる。無条件で声を出すイメージを持つことが大切だ。

暴漢に揺すらているときは、完全に相手の掌中にいるので、とにかくその場を脱出しなければならない。後で何されるかわからないし・・・、とか考えずに、まずはその場を離脱することだけに専念してほしい。タイミングなんて考えないで、とにかく叫びながら、走って逃げるのだ。

叫べば、相手は一瞬面くらうので、すごく逃げやすくなる。その後もうダッシュすれば大丈夫だ。

腕に自信がある場合を除いて、間違っても武器で戦おうとか考えてはいけない。理由はいろいろだが、たぶん勝てないからだ。

ただ、女性の場合は足元がヒールだったりすると走れないので、防犯ブザーの携行は必須かもしれない。
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2009年05月07日

縁起によって見える世界が違う

同じものを見ても、AさんとBさんでは全然違って見えています。

例えば、ショッピングモールに買い物に行ったとします。Aさんは男性用のジャケットを、Bさんはネクタイを探していたとします。二人は、ショッピングモールという同じ空間を移動しながら情報を検索しているのに、引っ掛かる情報が全く異なります。だから、ネクタイのBさんに、タイトなライト系のジャケットの情報を聞いてもおそらく何の情報も得られないでしょう。脳が必要な情報以外すべてフィルタリングしているからです。

ショッピングモールという非常に限られた、しかもアクセスしやすく情報が整理された空間でさえそうなのです。これが世界というカオスを相手にしたとき、情報の99.999・・・%はカットされると思っても間違いではないでしょう。

情報化社会と言いますが、どんなに情報があふれても人間にはほとんど情報を処理する力なんてありません。ほとんどアクセス不能です。真実は覆い隠されています。

しかし、そんな中にあって、私たちは特定の情報にしっかりとアクセスして、自分の生きる糧にすることができます。それはとてつもなく巨大な情報カオスにアクセスして必要な情報を取り出す作業で、ほとんど不可能と思えるのですが、それは目的を持っているときにだけ可能になります。ジャケットを欲しいと思えば、その情報だけはなんとか手に入れられるのです。

これを仏教では「縁起」というのだと思います。脳科学の茂木さんなら「アハ体験」です。もちろんジャケットごときで「縁起」が広がるわけではないでしょう。自らの意思でやりたいことをやっているとき、もしくは自らの運命を自分の意思で引き受け生きていこうと決意した時、「縁起」が広がるのだと思います。逆に、自分の意思で運命を引き受けないと、「縁起」はどんどん小さくなっていくかもしれません。誰かを頼りにしていては「縁起」は絶対に広がりません。

同じ世界に生きながら、同じ世界を共有している人は誰ひとりいない。同じ「縁起」を持っている人はいないのです。

人は生まれながらオンリーワンで、それは人によっては素晴らしいことかもしれませんが、ほとんどの人にとっては受け入れ難く、とてもさびしく切ないことです。その切なさを受け入れることから「縁起」が始まるのだと思います。
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2009年04月24日

無駄にいい声で歌う中野駅前のおにいさん

中野駅前を夕方5時ごろ通りがかると、ものすごくいい声で「ぽーにょ ぽーにょ ぽにょ」と歌うNHKのお兄さんのような人がいた。周りから冷笑の目で見つめられていて、ぼくも足早に通り過ぎた。しかし、いい声だった。

たしかに、いい声なんだ・・・。だけど、いい声ではあるが気持ち悪くもあった。

なんで気持ち悪いかっていうのが気になって考えた。たぶん無駄にいい声なんだよね。抑圧されている感情を解放するための発声と言えば専門家はピンと来るんだろうけど、そうではない普通の人には・・・、田舎のレストランで歌われる島歌の生バンドといったほうがわかってもらえるだろうか?

いい声であるためには、まず抑圧されている状況に自分がいる時点でアウトだ。抑圧されているので、どうしても表現すると発散してしまう。社会学的にいうと「ボクを承認して!」という主張になってしまう。残念ながら、その叫びは観客には届かない。

とはいえ、それはプロになりたい卵に対しての言葉で、最近はNHKのお兄さんお姉さんのカラオケにはずいぶん寛容になってきた。抑圧された感情を発散する場所は、抑圧するシステムがある以上不可欠だからだ。プロのそれと同列に考えること自体全くお門違いなんだろう。

そう考えると、日本はギリギリのところでバランスを保っていて、抑圧するシステムと発散するシステムが都市機能にちゃんとあるということだ。

がしかし、発散している彼の声は、気持ち良さそうではあるが、「ボクを承認して!」とう悲痛な叫びにしか聞こえない。彼の歌う姿を見て、素晴らしい人生を生きていると思う人は、まずいないと思うくらい悲痛な叫びだ。

この叫びは、何も彼だけの話ではなくて、日本中でこの種の発声法を耳にする。例えばマツモトキヨシの呼び込みだったりする。日本中の商店街や会社や飲食店でこの発声を耳にする。これってやっぱりちょっと異常だと思う。

がんばることは悪いことではない。だけど、我慢を続けるのはNHKのお兄さんへの道でしかない。
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2009年04月20日

スコトーマの本当の外し方

この記事はちょっとハードです。ある意味暴露です。

最近、脳機能科学者の苫米地さんの話題を良く耳にする。脳機能科学っていうのは、ようするにセールスマン巡回問題に代表される人間の思考そのものを関数で記述する仕事だろう。特別珍しい分野ではない。が、なぜか彼はそれを特別な仕事だと豪語するが・・・、その辺の怪しさは、まあ一ファンのぼくは目をつむる。

その怪しげな彼が言うことの一つに「スコトーマを外すために、自分の今いる立場の外に目標をおきなさい」というのがある。今日は、この本当の意味を解説する。

スコトーマとは盲点のことで、本当は見えているのに見えていない状態を指す。

多義図形という図形がある。ルビンの壺、老婆と美女など、一つの図形に二つ以上の意味が込められた図形のことだが、あれを思い浮かべるとスコトーマがイメージしやすい。一つの意味を捉えると、他の意味が消える。つまり、現実には見えていても、一つの意味でしか見れない。普通多義図形は、その意味が一定時間で交代するのだが、これが固定化された状態をスコトーマがかかっていると彼は定義していると考えて間違いない。

我々はかならず何かしらのスコトーマがかかっている。例えば、会社を辞めたら飢えて死ぬというスコトーマがかかっているかもしれないし、努力しても無駄だというスコトーマがかかっている人もいる。こんな極端な例でなくとも、おおよそみんな資本主義の論理に絡め取られているはずである。金は欲しい。

さて、彼は、こういったスコトーマを外すために、自分の今いる立場の外に目標を持ちなさいと説いている。実は、この意見が絶妙で、半分しか答えを言っていない。いや、本当は言っているのだけどわかるように解説していない。

もし、あなたが会社の社員で、その会社の社長になりたいと思ったとする。そうすると、あなたは社長になるためには何が必要かを考えて行動するようになって、自分を徹底的に奴隷化させる。あらゆることを我慢して会社に奉仕するようになる。しかし、どんなに努力してもその夢はおそらく叶わない。なぜなら、社長になりたい人がたくさんいるからだ。実際になれるのは一人だけなので、確率論的に社長になれない。そんなこと頭でわかったとしても、それでも社長になりたいと思うのが人間の性で、よりもっと自分を奴隷化させる。だから、そうならないように自分のいる立場と全く違うことを目標にするようにと、彼は主張するのだ。

たとえば、会社の社員をやりながら、農家になりたいと思ったとする。すると、どうなるかというと、今まで目の前にあったやりたくなかった書類の山を処理することが、農家になるためにはとても重要な修行のように見えたりする。農家で生計を立てるには経理の仕事も必要なので、簿記の勉強を始めるかもしれない。社長になるという目標を持っていたときには全く見えなかった現実が突然姿を現し始める。スコトーマが外れて、多義図形が、多義図形として見えるようになったのだ。

彼の説明は、たぶんここで終っている。だから、誤解たっぷりなのだが、かれは狙ってここで説明を終えている。本当はこう続くはずで、そういうニュアンスを彼は著書の中でたぶんに匂わせている。

農家になりたいと思って、農家の勉強を始めて農家になったとする。その時点で目標が達成される。もしくは達成されそうになった時点で、また自分の立場と違う目標を持つようにして、延々とスコトーマを外し続け、多義図形をより多義に見えるようにする。社長になるとか、農家になるとか、海外で優雅に暮らすとか、そういう目標を無限に持つと、多義図形が無限に鮮やかに立体的になる。これは目の前にある仮想現実R’を自己実現という関数で積分したことになる。そうすると、無限の自己実現を同時に達成する事のできる、より高次で抽象度の高い目標がある日突然顔を出す。これを「悟り(おそらくは小悟)」という。または、「本当の自分」という。

「本当の自分」は、すべての自己実現を同時に達成することができるので、ぼくは自己実現を超えた社会実現と呼んでいるし、段階欲求説のマズローは自我を超えた欲求、「超自我の欲求」と呼んでいる概念と一致する。彼は、これを仕掛けようとしているのは明白だ。

が、彼の凄みは、そんなことを書かないところにある。どうやって影響力を最大にすればよいかをよくわかっているのだろう。天才というほかない。

と、あまり持ち上げるのも問題かもしれないと思うので断わっておくと、彼の50万円のセミナーをお勧めはできない。必要な人には適正価格かもしれないが・・・、やはり高すぎると僕は思う・・・。が、人それぞれなので参考までに。

さて、この文章でみなさんのスコトーマが外れただろうか・・・。
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2009年04月09日

掃除と洗濯とエントロピー

人生とは「掃除と洗濯」である。

最近、僕の中ではやっている言葉です。

あらゆる秩序は無秩序に向かって崩壊していきます。これを物理学ではエントロピーが増大するといいます。

このエントロピーが増大していくことと戦うために、動物には死がプログラムされました。崩壊する前に、人生を終わらせ、新しい生命によって秩序を保とうというわけです。

死によって秩序を保つのは、なにも動物だけに限ったことではありません。

人間が生きている間も、常にこのエントロピーの増大と戦いなのです。そしてその戦い方が、掃除と洗濯です。不必要なものに死のレッテルを張って除外すること、これが掃除と洗濯です。だから、掃除と洗濯ができなくなったら、次第に不必要なものが周りにあふれて、秩序が維持できなくなっていきます。そして人生が終わります。

部屋、人間関係、生命、生態系、ビジネス、政治、あらゆる秩序は崩壊します。エントロピーの増大を押しとどめるには・・・。

というようなことを考えて、人生とは掃除と洗濯である、が僕の中ではやったのです。
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2009年01月08日

なぜこんなに生きにくいのか

この二日のエントリーの背景の一端。「なぜこんなに生きにくいのか」の作者で僧侶の南 直哉の動画。聴き手は宮崎哲弥。

10秒くらいは真っ暗です。
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経済と自尊心を両立する

ちょっと独り言。

「会社」は、交換可能な労働力を生み出す制度。生産効率は高いが、人間の尊厳にたいしてとても厳しい。「あなた」である必要がない。組織の力で稼ぐので、息苦しいが、収入は高い。

「自営」は、交換不可能な労働力。生産効率は低いが、尊厳が守られる。「あなた」が必要。個人の力で稼ぐので、自由だが、収入は通常低い。起業家の9割はサラリーマン時代の方が給料が良い。

日本は、この60年くらいは生産効率を追いかけ続けたわけだけど、そのおかげで「自尊心」は限界まで傷ついてしまったんじゃないか?派遣切りはその象徴だろうか?東京には不況であろうと関係なく起業家志望の青年がたくさんいる。これもその反動の現れだろうか?

経済と自尊心、みんなが両立できる社会というのはとても難しい。難しいが、その道を模索しないといけない。

ああ、これはウチのお客さんがいつも言っていることを鳥瞰しただけだった。なるほど、こういうことがしたいのか。これはいい仕事だ。
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2009年01月07日

夢を捨てろ!

昨日、ある企業さんから新卒の学生に一言コメントを求められた。その時に思いついたのが「夢を捨てろ!」だ。

このコメントをしたら、担当さんは「本心からそう思ってるんですか?」とキョトンとしながら聞き返してきたので「本心からそう思ってます」と返した。

人間、夢がないと生きられない。だから、今よりも少しでもいい暮らし、豊かな生活、あこがれの職業を求める。もし現実社会で夢がかなえられないなら、あの世の極楽ででも、なんとか夢をかなえようとする。来世に夢を託す。人生は夢に支配されていると言ってもいいくらいに、がんじがらめだ。夢を見ることを脅迫されていると言ってもいい。

だから、その夢を見ることをとりあえずやめてみる。芸能人になることをとりあえずあきらめてみる。とりあえずあきらめると、現実が顔を出す。すると、あなたに向いていること、向いていないことがわかる。わかったら、ただ向いていることを仕事にすればよい。何に向いているかわからなければ、とりあえずできることをする。できることは、きっとあなたにとって向いていることだ。

そして大切なのは続けることだ。やめてはいけない。ただ続ける。夢を見ずにただ走る。もし長く走れたなら、その職業はかけがえのない生き甲斐になる。生きる甲斐と書いて生き甲斐。生き甲斐が見つかれば、夢はそれほど必要ない。いつかかなう夢を生きなくてもよくなる。ただ生き甲斐を続けてステップアップすればよい。

夢を叶えた有名人たちも、所詮はこうやって夢をかなえたに過ぎない。実は夢じゃなくて、彼らにとっての現実がそうだったとういうだけだ。

だから、夢を見ないで現実を生きてほしい。そうすれば「路傍の石」でしかない自分をうまく活かすことができるはずだ。そしてそれはとても楽しいことだ。

夢も希望もいらない。

新卒の学生さんへのメッセージなんだけど、・・・重いよな・・・。
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2008年12月26日

人殺し政治

一か月くらい前に、問題は12月26日以降だと書いたけれど、その問題の日がやってきた。恐ろしいことに、この予言は当たりそうだ・・・。初めて政治家の悪口を書くが、自民党と民主党の睨みあいのおかげで、これから夏までにかなりの数が自殺するだろう。渡辺喜美は正しい。

麻生太郎首相は即刻解散総選挙によって民意を問わねばならない。民主党が自民党の補正予算案に合意すれば話しは収まるかもしれないが、おそらくそれはない。首相は人殺しをする民主党を痛烈に非難して、年明け早々民意を問うのだ。そうすれば大敗は避けられるかもしれない。いや、そんなに甘くないかもしれないが、それしか打つ手はない。

首相が解散をしなければ首相自身が間接的に人殺しをしていることになる。それは人として許されない。というか、ぼくが許せない。

選挙を経て、民意を反映した国会によって4月までの最大の難局をなんとか乗り切ってもらいたい。もし、この4月で底が抜けたら、本当に日本は大変なことになる。一刻も早い解散を願う。
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2008年12月22日

精神の無防備に備える

戦後、あまりに経済ばかり見てきたせいか、心の支えが置き去りにされてきてしまった感がある。

心の問題を支える方法は、3つくらいあるだろうか。一つは家族や友人。二つ目は、哲学・芸術・科学。三つ目は、宗教。

一つ目の家族を中心とするコミュニティーは消失した。二つ目の哲学・芸術・科学は、残念ながら一般には難しすぎる。三つ目の宗教は、一般に理解しやすく心の問題を解決できる可能性がある。

しかし、宗教家の惰性だろうか、まったく布教に熱心でないなまくら坊主が多すぎる。ここままだと、檀家制の日本の仏教は大変な事態になるだろう。少しくらいカルトを見習えといいたい。

日本の仏教がこんなだから、精神的なよりどころがなくなった日本人は、簡単にカルトにはまる。実に簡単にだ。

カルトは、「私はカルトですが、入信しませんか?」なんて絶対に言ってこない。現代社会のコミュニティーが破壊された寂しさに付け込んで、仲良しグループに誘うところから始まる。カルトがどんなものか全く知らない普通の人は、その仲良しグループがまさかカルトだとは思いもしない。そして、気がつけば入信しているのだが、それでも自分のやっている活動がカルトだとは気がつかない。こうしてずぶずぶと深みに足を取られることになる。

精神が空白化している現代社会は、精神的に無防備すぎる。これからの20年は混沌とした時代になる。その不安や寂しさに付け込んでカルトが暴れるだろう。

気をつけてもらいたい。
posted by Kagege at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム